バッティング理論は本当に必要なのか!?
世の中にはバッティング理論というものがたくさんありますが、負けたら終わりという野球の試合において本当に理論というのは必要なのか?ということを最近マジマジと考えていました。私は以前からグランドレベルでは理論は使えないと言ってきましたが、結論から言うとやはり不要です。これは「フィードフォワード」と「居着き」というキーワードが、どうしても野球の真剣勝負には避けて通れないからです。
科学的に動作を解析することは専門家の仕事でもありますが、それをプレーヤーが行うという事はまた別の問題です。近年、めまぐるしい技術の進歩により、野球本来の面白さである「1対1の真剣勝負のワクワク感」という魅力が薄れているように感じるのも、このバッティング理論・指導というのが深く関係していると考えています。
カテゴライズすればバッティング理論は人気がでる
速球の打ち方、遅球の打ち方、インコースの打ち方、アウトコースの打ち方・・・。これらはすべて異なる動作ですが、緊張している試合の打席内でこれらを別々と考えたり、先読みしてアクションを起こす事(フィードフォワード)は、残念がら通用しません。
しかし、実際の運動動作的にはそれぞれ打ち方は違いますので、多くの指導者はそれらをカテゴライズしてしまうわけです。たとえば、アウトコースへ逃げるスライダーとインコースへ食い込んでくるツーシーム系のシュートは同じ打ち方では捌けませんから、それぞれを別々と考えて対応策を練習するんですね。
マーケティングの面でいえば、ユーザーにわかりやすくそれぞれの動作をカテゴライズした方が、バッティング理論は人気が出ます。もちろんそれらは本質的なものではない場合が大半ですから一過性の流行で終わりますが。
実際に私の初期の指導は「相手をただただ打つことだけ」をテーマにした指導であったため、選手や指導者サイドには感性が求められるわけです。とうぜん全国的に人気は出ませんでした。ところが実際に指導を行った選手は、にわかには信じがたい成績を残していたんです。ユーザーを騙すという言い方は良くありませんが、こういう場合はこうスイングして、こうきたらこういうスイングというようにカテゴライズして提供した方がバッティング理論は人気が出るというのも、野球の魅力を薄れさせている原因の1つでしょう。
ゆとり教育は間違っていたのか!?
ゆとり教育というのも似ていますね。知識重視の教育を「詰め込み教育」、経験重視の教育を「ゆとり教育」というようですが、これも教師・生徒側に感性が求められるわけです。詰め込み教育では各教科内であまりにもカテゴライズされすぎていて、学ぶ生徒が一つ一つの要素を勉強しても「これは将来的に何か役に立つのか?」と疑問を抱いてしまうように、総合的に何を勉強しているのかわからなくなってしまうというという事を危惧したわけですね。
しかし、いざ応用力を問うてみたら何もできない。いちいちカテゴライズしてあげないと理解しようとしない。微妙な意味合いを受け手側が変えて自分の中でそれを良い方向へ変化させていけば良いだけなのに、それが出来ないわけです。バッティングも同じですね。センスのある選手は微妙な意味合いの違いだと認識して、変化させ、自分なりにアレンジして結果を出す。インコースだろうとアウトコースだろうと、打つ事には変わりないという感じです。
でもこういうセンスのある選手を育てようとしても簡単にできるものではありません。何故か?ゆとり教育の失敗でもわかりますが、教える側の感性や意味合いの違いを変化させてそれを応用するという部分が全く出来ないからです。
be動詞とトスバッティングは似ている
私は英語が全くできません(笑)中学1年の英語の時間で暗記したbe動詞は上記の通り、これらの要素は全体でみたときに何に使うのか?未だにわかりません。いま思うと日本語は漢字も平仮名もカタカナも覚えなくては扱えませんので、それにくらべたら英語なんて余裕だろと考えしてまいますが、当時は全体がわからなかったので、そんなもので学年順位をつけられるテストよりも、入部してすぐに試合に出させてもらった野球の方が魅力的でした。
そんなどっぷりハマった野球ですが、トスバッティングと走り込みという練習メニューだけは英語の授業と同じ感覚でしたね(笑)これは何の意味があるのか?と。トスバッティングで使うスイングも、バットのコントロールも試合のそれとは全く違うので結びつきませんし、走り込みに至ってはそんなしんどいことしなくても、ペース配分を考えれば7回投げ切ることは余裕でした。
観客が感動するプレーが少なくなった原因
これも同じですよね。国語の授業では動詞、形容詞などの文法をカテゴライズして学ぶわけですが、たとえ、いびきをかいて爆睡している野球部員であっても、日本に生まれて日本で育っていれば、日本語に触れる機会がありますから全体でみた時に自然と使いこなせるんです。野球だって、ある程度の動きを指導者に教えてもらえれば、10年も同じことを繰り返しているわけですからそれなりの動きはできるはずです。
でも試合でそれらを発揮できない選手がいるということは、どこかで違うわけですよ。どこかで全体的にみること(相手をただただ打つというルール)が出来ていないわけです。それが、大人の考えるようなカテゴライズした少年・中学野球のバッティング指導やバッティング理論です。
野球全盛期の名プレーヤーはそこが違うわけです。とうぜん少年時代、現代のような恵まれた環境でバッティング理論を教えてもらえたり、インターネットで情報を手軽に入手できたりということは無いですから、遊びや練習の中で「真剣勝負で相手を打つ」ということに対して、何でも感覚的に身につけていったんです。(残念なことに、この感覚というものは他人に言葉で教える事はできないので、ここでまた食い違いが起こるんですよね)
国語のテストではカテゴライズされた1つ1つの要素を問われるのでこのやり方では絶対に点は取れないですが、実際は普通にしゃべれる。これをバッティングに置き換えれば、確かに1つ1つのプレーは荒っぽいかもしれないですが、全体としてみたときに自然と相手を打つことが身に付いているので、大事な試合のここぞって場面でしっかり結果を残す。観客はそれをみて感動するわけです。
1対1の練習を積極的に導入すべし
では、カテゴライズせずに、選手が独創的な発想、動作を能動的に行うためには、どのようなバッティングの指導をすればいいのか?これは、どうすればゆとり教育は成功するのか?という部分と重なりますが、ズバリ「必要最低限の情報量を教え・動作、思考共に居着く事のない身体を創り上げ・ただただ相手を打つ事」を徹底させることです。
大人の考えるようなカテゴライズされたバッティング理論なんか必要ありません。冒頭でも触れましたが、試合中にはフィードフォワードと居着くという動作がある以上、要素主義的な発想の練習はダメなわけです。
具体的にいえば、チームメイト同士で真剣勝負をする機会を増やす。投手だろうと野手だろうと関係なく投げさせて打たせる。もっと打つ投げるということに対して必死になっていかないと、現在の野球界の閉塞感からは抜け出せません。指導者も余計なことは教えず「相手がモーションに入ったら、だいたいこんな感じでボールを待って振ればいい」というだけです。あとは、とにかく相手を打つ事、抑える事に必死になれという練習を徹底させます。
そうすると、面白い事にインコースの厳しいボールでも上手く腕を畳んで、素直にバットが出て、身体が過度に回転せずに捌けたり、アウトコースの逃げるボールにも上半身を遅らせて合わせたりということが意識していないのにできてくるんです。それぞれの動きの要素をカテゴライズして教えていなくてもです。
すでに「どうスイングするか?」という時代では無い
そういう意味でも今後は、どうスイングするかというバッティング理論は廃れていくでしょう。絶対にです。上記の真剣勝負を補助するように、いかに居着かない身体をつくれるか?や、バッティングマシンの話でも解説したように「意・気・体」の体ではなく、真剣勝負に欠かせない「意」と「気」の部分を扱った理論が増えていくと思われます。
サッカーの方が魅力を感じるという少年が増えてきたという事実からも、野球の魅力が薄れていることは間違いありません。ルールの大幅な変更があったというわけでありませんから、競技自体が面白くなくなったということは無いわけです。問題は部活動の環境ですね。確かに技術とセンスのバランスは重要ですが、ゆとり教育問題と同じ轍は踏まないようにしないとダメですね。
「詰め込み教育」がいじめにつながるというのは一概には言えませんが、センスのある選手に対して運動を支配している脳に「パターン化された退屈な練習」を強要するというのは危険です。野球に対する情熱を失いやすくするだけではなく、そういう練習を集団で行っていると心の許容範囲も狭くなってきますから全ての面で効率も悪くなるでしょう。
バッティングの真理に近づく、到達することは並大抵の努力では無理ですが、バッティング理論・指導に対しての認識を変えることはすぐに出来ます。いま一度、相手を打つという事を深く考えてみてはいかがでしょうか?