メンタルをコントロールする必要性~平常心とは?~

今年の栃木県高校野球大会は非常に面白い試合が多かったのですが、中でもさほど身体が大きくない選手が大事な場面でヒットを打つというシーンや強豪校が追い込まれるシーンなどが印象に残りました。負けたら終わりというような試合のさらに緊張する場面での打席なんかでは「身体はどのような状態なのか?」という視点でよく選手をみたりするんですが、今大会では上手に自分をコントロールして逆転打を放つという選手が何人かいました。

こういう部分は技術的な要素やメンタルの要素などが絡んできますが、ピンチを打開できる選手は共通して身体の状態をコントロールできていますよね。そこで今回は、メンタルについて少々お話したいと思います。

熱血球児が少なくなった!?

一昔前の高校野球ではよく見かけたのに、最近見かけないなぁと感じる光景の1つに「雄叫びで闘争心を沸きたてる力自慢の熱血球児」があります。時代の流れなのでしょうが、近年の高校生は雄叫びを上げる選手はいるものの、鬼のような形相で打席に立つ選手は少ないですよね。意外と冷めているというか冷静というか、良い意味で状況に流されない選手が目立ちます。

これはスポーツはリラックスすればするほど、平常心で自分のプレーができ、それがパフォーマンスの向上へ繋がるという考えが広まってきたというのが大きいかと思います。この部分はテレビ観戦していると選手の表情がアップになるので甲子園大会では注目してみると面白いですよ。

現代野球のメンタルのルーツはSAMURAIである

私は昔日の兵法家や剣術家が遺した短歌というのが結構好きです。高校野球のトーナメント形式の試合では、2、3回戦まで勝ち上がると、どの高校も少しのミスも許されないためメンタルの問題が大きく左右しますが、野球の指導でいわれているようなメンタルの核の部分は、すべて昔日の兵法家や剣術家が遺した短歌に記されているんですよ。

たとえば、栃木県大会でもあったようなジャイアントキリング、つまり番狂わせを起こしたチームのメンタルでいえば、

山川の瀬々を流るる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

こんな感じでしょう。負けたら死を意味する刀での勝負では、こういった戦いに必要なメンタルというのが重要になってくるんですね。この短歌でいえば、身を捨てるというのは死の覚悟を意味しますから、覚悟を決めることが勝利へ結びつくという表現ですね。実に侍らしいです。番狂わせを起こすようなチームは、技術的・体力的・センス的な面で相手に劣っているわけですから、色々と捨て身で仕掛けていくわけです。さすがに高校野球で死を覚悟するという事はあり得ませんが、敗北や競技生活の引退を覚悟するという意味では置き換える事も出来ますね。

作新学院という横綱

我が栃木県には作新学院という強豪校がここ何大会か安定して結果を残しています。要素要素では「あれ?今年は危ないかな?」というようなシーンもありましたが、全体を通してみるとやはり安定の横綱相撲。どんなに敗北を覚悟の上、捨て身で仕掛けてもやはり崩せないわけです。作新学院の選手達は甲子園でプレーした自信とプライドがあるのでしょうね。

敵もなく我もなぎさの海小舟漕ぎ行く先は波のまにまに

こういう精神力があるチームは強いですよね。あらゆる捨て身の仕掛けにも一切動じず、中盤までたとえ拙攻が続いても決して焦りはしない。

ちょうどロンドン五輪で体操男子の内村選手が金メダルを取りましたが、まさに「平常心」。自分のベストなパフォーマンスを行うだけ。誰がどんな演技をしようが関係ないと。ここまでいくと「少し勝ったくらいで浮かれるな!あくまでもチャレンジャー精神で・・・」というレベルではないでしょう(笑)まさに横綱相撲です。

居着きやフィードフォワードは平常心をかき乱す

この「平常心」という心境に達するためには「多くの練習や実戦を繰り返すことでメンタルのふり幅というのをコントロールする」ことが最も一般的ですが、よくいわれる「常に次のプレーを頭に入れておくことが重要だ」、「練習のための練習だと思うな、試合を想定して練習しろ」という教え。これは、解釈を誤ると少々危険です。

つれづれに工夫観念つとむればまことのときに心うごかじ

常に相手の情報を頭にインプットするのは正しい事です。ですが不測の事態までも記号的にカテゴライズして、「こういう場合はこう動こうと予め決めておくこと(フィードフォワード)」は避けるべきです。工夫観念というのは独創的でなければいけないわけですから、私のセンス理論でいえばシンプルになればなるほど不測の事態には対処できるということです。

「フィードフォワードは思考や動作に居着きが生まれる。居着きは焦りにつながる。焦りは平常心をかき乱す」

野球の真剣勝負では、必要最低限の情報を頭に入れ、あらゆる困難な状況、にわかには信じられない出来事などに、刹那に順応できる心身を常に磨く事が求められるわけですね。

稽古をば勝負するぞと思ひなし勝負は常のけいこなるべし

これも良い短歌ですね。たとえば、何度もいっているようにバッティング練習でも相手を打つと思って打たなければまるで意味がありません。バットという道具はボールを打つものですから、そのバットを持って打席に立つ以上、とうぜん打つと思って打たなければなりません。もっと深くいえば、試合中でも打つと思って打たなければ相手には勝てません。こんなシンプルなことですが、これが上手くできないんですよね。どうしても色々な要因がこのシンプルさを失わせているわけです。

指導者にも平常心が必要である

どう振るか?どんなボールを打とうか?何を捨てるべきか?得点圏にランナーがいるから打球の方向は・・・。ただ単に「練習のための練習と思うな」というのは簡単ですが、これら情報過多な状況下で「相手を打つと思って打ちなさい」というシンプルな指導は中々出来るものではないですからね。情報は必要最低限に、不測の事態にやわらかく対応できるように、普段の練習からチームで徹底していると本番でのここぞという勝負強さが身に付くでしょう。

指導者サイドにもとうぜん「敵もなく我もなぎさの海小舟漕ぎ行く先は波のまにまに」という精神が必要になってくるはずです。今夏の甲子園大会はこういうメンタル部分を読み取るというのも面白いかもしれませんね。新しい発見が出来るかと思います。今回はここまで

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